私の目指した「遊びで授業を創ること」ですが、その理想や試みは始めから暗礁に乗り上げます。そもそも遊びとは何か、私自身がよく分かっていなかったのです。だからこそ遊びで授業を創るため、遊びとは何か、そもそも人の成長に必要なものなのかを知ることから歩みを進めました。
ということで、遊び冒険記の第2回のはじまり、はじまり。今回は紀元前から現代に至るまでの遊びの知見や研究を俯瞰的に見ていきたいと思います。
まず遊びの世界地図を見渡してください。動物の遊び、そして人間の乳幼児から大人になるまでの遊びのつながりが、網羅的に描かれています。その周りにいるのは、遊びについての知見を残してきた研究者たちです。まず注目したのがこれらの人たちの遊び論や遊び研究でした。
古今東西、多くの人たちが「遊び」に興味・関心を抱いてきました。古くは紀元前、古代ギリシャの哲学者プラトンも幼児期における遊びの有用性を語っています。他にも、アリストテレスやカント、ロックにパスカル、さらにはルソーやペスタロッチ、フレーベルなど誰もが一度は聞いたことがあるであろう偉人たちが、遊びに関心を示しています。
そうして紀元前からさまざまに語られてきた遊びへの関心は、やがて時代の変遷とともに実証的検証の場、つまり研究対象として生物学や社会学、心理学や教育学において注目を浴びるようになっていきます。
その中で、まず「そもそも遊びとは何ぞや」といったテーマが隆盛します。遊びとは、働いた後に残ったエネルギーの消費活動であるとする剰余エネルギー説。エネルギーが余ったからではなく、働くことで失われたエネルギーを再生するために遊びがあるとする気晴らし(エネルギー再生)説。他にも、反復説や練習(準備)説、代償説に浄化説など、実にさまざまです。
その中でも注目したいのは、動物や人間の遊びについて研究したグロースらの練習(準備)説に連なる研究です。遊びは大人になったときに必要な能力を身に付けるために、幼年期に練習を通して身に付ける必要があり、それが遊びという形態をとるという説です。この説は後の研究で誤りが指摘されています。しかし、遊びによる反復行為(楽しいから遊び、それが繰り返されること)が身体的・精神的発達を促すのは確かなことです。
そこに目を付けたのが、現代の学習理論に大きな影響を与えたピアジェやヴィゴツキーらでした。遊び研究自体は各学問領域において、また違った系譜をたどりますが、ピアジェやヴィゴツキーらによって人の発達、つまり学習(学び)と遊びの関連、遊びの教育的価値へとつながっていきます。ピアジェは認知機能の発達理論をもって、ヴィゴツキーは発達の最近接領域の理論をもって、遊びこそが乳幼児の発達を促すこと、つまり遊びには大きな教育的価値があることを明らかにしたのです。そして、ブルーナーやデューイをはじめ、多くの研究者や知の巨人たちが同様の結論を導き出しています。
遊びの研究史を俯瞰しながらたどり着いた遊びの教育的価値。はるか昔から時代を超えて再考され続けてきた遊び。そして、その多くが学習(学び)と関連的に論じられてきた遊び。まさに遊びのありようを考えることは、同時に学びのありようを考えることでもありました。私自身が、いえ世の多くの人が遊びに対して、教育や学びに生かせるのではと漠然と抱えてきた思いは間違いではなかったのです。