第3回 そもそも「遊び」とは

第3回 そもそも「遊び」とは
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 第3回では遊びが成立する条件を探っていきます。

 雲をつかむように捉えどころのない遊び。遊びの世界地図(第1・2回参照)にもあるように、一番のヒントは「遊ぶ子どもたちの姿」が教えてくれそうです。そこで、まずは具体例を基に考えてみたいと思います。

 ある幼稚園での一場面。皆で相談し、今日は全員で長繩を使って遊ぶことにしたようです。縄を回している先生や縄を跳んでいる子どもたちもとても楽しそうです。

 「ねえねえ、跳べたよ!」

 「一緒に跳ぼうよ。楽しいよ!」

 そんな声が聞こえてきそうです。しかし、その後縄跳びをしていた子たちがこんなことを言ったとしたら、どうでしょうか。

 「先生、もう終わりにして遊びに行っていい?」

 遊びとは何か、実に考えさせられる一言であり、多くの示唆を与えてくれる一言です。ここから分かるのは、遊びを考える上で大事なのは、ある行為・行動・活動が「遊び」になるかどうかは「遊び手がどう感じるか次第である」ということです。だからこそ、誰かにとっては遊びでも、違う誰かにとってはその行為が遊びにはなり得ないということが起こります。

 つまり、遊びは縄跳びや鬼ごっこといった活動の形態ではなく、遊び手の認識であり、心的態度であり、ある活動が遊び手にとって遊びに「なる」ことが大切なのです。J.デューイやJ.N.リーバーマンなども同様に、遊びが遊び手の心的態度であることを示唆しています。

 では、どのような条件が重なったとき、ある活動が遊びになるのでしょうか。私が参考にしたのは、日本における遊び研究の火付け役となったヨハン・ホイジンガとロジェ・カイヨワの論考でした。そこに、山田敏や西村清和をはじめとしたさまざまな論考の共通点を洗い出し、次の3つの条件をまとめました。

 ① 遊び手が楽しいと感じる活動であること(快楽性:楽しくなる)

 ② 遊び手が外部から強制されたり、拘束されたりするという感じを持たないこと(非強制感:自由になる)

 ③ 遊び手にとって遊ぶこと自体が目的となる連続した文脈が形成されていること(属文脈性:物語になる)

 これらは分けられるものでなく、3つの条件が満たされた結果として遊びになるのだと、私は考えています。

 数々の先行研究を読みあさり、この遊びの条件を整理したとき、脳裏をよぎったのは数々の授業風景でした。子どもたちが、夢中・熱中・没頭するとき、その背景には快楽性と非強制感、属文脈性といった条件があったように思うのです。遊びが心的態度であり、どのような活動であっても、先に挙げた3つの条件を満たすことで、遊びになる可能性がある。そうであるならば、授業の中でも遊びながら学んだり、遊ぶように学んだりすることは可能なのではないか。そう思い、今に至ります。

 次回からは、授業例も交えながら、遊びになるための3つの条件のさらなる具体へと歩みを進めていきたいと思います。

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