三宅島噴火による被災で2000年8月末、子どもの集団避難生活が始まり、思わぬ苦悩を抱えることになった教員ら。当時、指導主事として学びの保障や教員の支援に奔走した帝京大学教育学部教授の増渕達夫さんに、困難を乗り越えるまでの教員らの軌跡について聞いた。
「先生たち自身も被災者で、家庭を案じながらも子どもたちのために力を尽くしていたが、無力感を抱えモチベーションが明らかにどんどん下がっていった」。増渕さんは秋川高校での集団避難生活を、そう振り返る。増渕さんら出張所と村教委の職員は、そうした教員の身体面・心理面の疲弊を案じ、子どものケアと教員の支援に24時間体制で奔走した。避難生活の当初は誰もが苦悩したことだろう。
しかし、避難生活が当初想定されていた1カ月をはるかに超えて長期化することが明らかになったことから、自宅など学校外に居住して秋川に通える職員は、秋川高校を出て通勤するようになった。
「避難生活では秋川高校内の公舎で生活していたが、そこを出てようやく自宅に戻れた日はものすごい解放感があった。あのままずっと寮に入っていたら、つぶれていたかもしれない」と増渕さんは語る。
しかし自宅からの通勤になったからといって、通常の勤務になるわけではなかった。寮での生活で問題が起きるのは夜間が多く、夜間の事件・事故の情報共有が朝食の時間になされることから、朝は6時前に家を出ていたという。退勤するのは子どもたちが就寝する夜9時過ぎ。1日のうち14時間は秋川高校で過ごす日々だった。
授業は、秋川校舎での始業式後すぐに再開された。小中高がそれぞれ暫定的な教育課程を編成した上でのことだ。
「1日でも早く、学びの保障を」という覚悟は、増渕さんが自身の避難時、とっさに持ち出した“モノ”」からもうかがい知れる。というのは、増渕さんが急きょ乗船することになったことは㊤に書いたが、その際に「これだけは持っていかなければ」と手にしたのが、「学習指導要領」「教育課程届」「パソコン」の3つだったのだ。
その理由を増渕さんは、「秋川に避難して児童生徒の安全が確保されたら、臨時休業した分の授業時数を補充しなければならない。そして、法令に基づいて学校教育をやらなければならない。その課題をクリアするには、基本となる学習指導要領と、各学校がどういう教育計画を立てていたかを示す教育課程届は、絶対に必要だと思った。それがないというのは、指導主事として考えられなかった。あとは、さまざまな記録をしていたパソコンが必要だった 」と説明する。結果として、定められた標準時数を満たしてこの年度を終えることができた。
再開した授業について増渕さんは「避難先が高校なので、小中学校として使用するには不自由することがあった。避難したとはいえ、先生方の中には泥流が発生する場所に自宅がある人もいた。『さぞかし心配しているだろう』と思った」といい、「その困難の中で先生方は前向きに頑張っていた」と語る。「前向きな姿勢があれば、さまざまな発見があり、工夫が生まれる。『これは絶好のチャンスですよ』と言って、3校で共に使う職員室で児童生徒理解を深め、熱心に教材研究をする先生もいた」と振り返る。
教員のそうした指導の工夫や子どもへの細やかな支援は、「秋川高校での記録」としてまとめられた資料に表れている。各教科の学びの進ちょく、保健室の利用状況が丁寧に記され、体育館やグラウンド、特別教室の使用についても、曜日や時間ごとに細かく区切られたスケジュール表が記載されている。小中高校で共有しなければならない限られた施設を、最大限に活用しようと取り組んだ様子がうかがえる。
中学校の美術では、画材などが十分に揃そろわない中、担当教員が秋川高校正門から北に500メートル続く120本のメタセコイア並木を見て「見事だ」と感じ、デッサンの対象に選んだことが記されている。秋川高校は現在閉校となり、校舎施設が解体されて都の閉鎖管理地となっているが、メタセコイア並木については秋川高校一期生が現生種から育てた経緯などから、約300メートルにわたって今も残されている。
先の見えない避難生活にも、徐々に変化が表れていた。三宅島で9月1日、大人も含めた全島避難が決まり、4000人余りの島民が島を出て、都営住宅などでの新生活を始めるようになっていたのだ。そのため、避難していた小中学生が少しずつ、親元で生活するために寮を出ていった。「三宅村学校要覧(秋川校舎)」によれば、9月5日時点では358人の子どもが寮で生活していたが、翌年の1月29日時点では272人が親とともに暮らすようになっていた。
引き続き寮で暮らす児童もいたが、2002年度からは入寮できるのは中学生以上となり、小学生は親元で生活することとなった。中高生は寮での生活を続ける生徒も多く、増渕さんは「先生方の努力は大変なものだった」と話す。「三宅高校には御蔵島から通っていた子もいて、そのケースでは家族は御蔵島で暮らしているので、生徒は土日でも親元に帰れない。そのため、先生方が土日も当番で寮の舎監を務めることになり、何かあれば全員体制で対応しなければならなかった 」
「マスコミや、当時普及し始めていたインターネットで、いいことも悪いこともいろいろ書かれる中だったが、節目ごとに何とか少しずつ気持ちを切り替えて乗りきった感じだ」と話す。20年たった今も鮮明に覚えている記憶として、「12月25日に終業式があり、子どもたちが全員寮を出て親元に行った。25日の夜に電気がポッと消え、ようやく24時間常に子どもたちの安全確保にピリピリする生活からいったん解放され、負担が軽くなったのを感じた時、初めて心から安堵した 」と語る。
その上で、「たぶんその安堵感は、先生方の方がもっと強かったのではないか。そうやって、年末年始で切り替えたり、次の学年について打ち合わせをして『新たに作っていこう』という強い意欲を持ったりしながら、前に進んでいったのではないかと思う」と振り返る。
4年5カ月以上にわたる全島避難となったが、教員らが苦難の中で強く団結し課題を一つ一つ克服したことで、被災した子どもたちは無事、元気に秋川から巣立っていった。増渕さんが子どもたちのその後の様子を知ったのは2018年、三宅高校創立70周年記念式典に招かれて三宅島を訪問した時のことだ。「秋川高校に避難した子どもたちのことは、毎日接する中で顔と名前を覚えていた。その子たちが各方面で活躍している様子を聞き、改めて人間の強さを実感した」と力を込める。
増渕さんの記憶にある三宅島の最後の様子は、火山灰にまみれて泥流で被害にあっていた姿だ。それがすっかり復興し、平穏な暮らしが戻っている様子を見た時は「感無量だった」と話す。「自然の脅威はすさまじいが、あきらめることなく力を合わせればきっと復興できるのだということを見せてもらった」
被災と集団避難を経験した中で悩んだことの一つとして増渕さんが挙げるのは、「野球の試合を見に来ませんか」といったイベントなどへの招待だ。「土日ごとにそういうお誘いがあった。子どもたちの気晴らしとしてはもちろんいいが、教員が必ず引率しなければならない。ありがたく思っていたが、当時の状況では有効に生かしきれず、苦慮することも多かった」と語る。
秋川高校は東京都の西部に位置し、都心では西の方にある新宿からでも約40キロの距離がある。仮に東京ドームへ電車で行くとなれば往復4時間を要するなど、引率する負担が軽くないことは想像にかたくない。
支援物資についても、ボランティアを手配するまでは教員が仕分けや保管などの対応をしなければならなかったのに加え、「着られないほどになっている古着のような、心ない物資もあった。また、らっきょうのような漬物の他、『子どもたちに食わせてくれ』とおすしを送られることもあり、なま物は食べさせられず、処分にも人手が取られて本当に困った」という。「さまざまな支援は、とてもありがたかったが、授業時数の確保や児童生徒の負担への配慮、教員の引率の体制などから、せっかくの支援を断らざるを得ないことがたびたびあり、心苦しい思いをした」
一方で、大きな救いとなった支援の一つとして「心から感謝している」と語るのは、臨床心理士やアドバイザリースタッフの派遣だ。「教員が疲弊していく中、放課後に子どもたちの遊び相手をしながら心のケアをしたのが、東京臨床心理士会のボランティアと、都教委がアドバイザリースタッフとして派遣した学生スタッフだった。この支援があったから、教員は放課後、子どもの相手をせずに教材研究や打ち合わせなどに時間を使うことができた」と話し、加えて「この人たちが子どもの心の変化をキャッチして教員に伝えてくれたおかげで、必要なケアができた。秋川に避難したばかりの混乱期にある子どもと教員を救ってくれた」と振り返る。
また、被災した立場から避難訓練に対する提案として、「学校の避難訓練は全員が学校にいる想定で実施されるが、夜間や長期休業中を想定して、教員が何をすればいいのか訓練しておく必要がある。能登半島地震でも1月1日の夕刻で学校管理外だったが、学校が何もしなくていいわけではない。まずは子どもの所在と安否の確認。それから、学校に来られるのかどうか、親元で安全に過ごせているのかの把握。いざという時にあわてることがないよう、指揮命令系統も明確にしておかないと初動が遅れる」と訴える。
「もちろん、被災しないで済むのに越したことはないし、自分が被災するかもしれないとは思わないだろう」としながらも、「予測困難な将来とはまさにこうしたことで、地震だけではなく台風など、さまざまな自然災害に遭遇する可能性は十分にある。その時に学校がすべきことについてはその時の状況に応じるしかないが、教員としてすべきことは常に考えておかなければならない」と強調。「誰もが被災の可能性があるということを、改めて自覚する必要がある。困難を乗り越えられるようアンテナを高くし、日頃からネットワークや研修を大事にしてほしい」と述べ、「災害時は先が見えず大変だが、皆で協力しながらなんとか乗り越えるしかない。困難は必ず終わる時があって、その経験を踏まえて次の世代に伝えられることがきっとある」と力強く語った。