「陰キャラ」「陽キャラ」「コミュ障」「ぼっち」。子どもたちの間で、こうした「キャラ付け」をして区分するスラングが広く使われるようになりました。場の空気を読めるか、笑いが取れるか。そのコミュ力によってスクールカースト、教室内での地位が変わってきてしまうのです。自分が教室の中でどんな「キャラ」であり、どのような「地位」にいるか。それが子どもたちの行動を左右することも少なくありません。
清掃の時間。教卓の周りに4~5人の人だかりができていました。何やら楽しそうに談笑しています。その輪の中心には、みんなに人気のあるAくんがいます。一方で、てきぱきと掃除を進める残りの子どもたちは、隅に寄せられていた机を元の位置に戻し始めました。人数が少ないのでとても大変そうです。
そこに他の掃除場所から戻ってきたBくんが来ました。さて、このBくんはどちらに向うべきなのでしょうか。Bくんの学級内での立場を考えるならば、取るべき選択は教卓へ向かうこと。人気のあるAくんと仲が良い子たちが集まってきていますから、そこに交ざって一笑いでも取れば、自分のキャラ付けが少し上がるかもしれません。逆に、掃除を一生懸命頑張っている子たちと共に机を運んでも、何のメリットもありません。むしろ「一生懸命頑張る真面目な子」という、不名誉なキャラが付いてしまうかもしれないのです。
これは、決して大げさな例えではないはずです。教室には、こんな事例が日々見え隠れしているのではないでしょうか。こうした利他的な行動よりも、利己的な「コミュ力」が重視されてしまう状況を放っておくわけにはいきません。コミュ力偏重主義との静かな戦いが始まります。
みんなの場所はみんなできれいにする。そんな当たり前をつくることはとても難しく、価値深いミッションです。仲の良い子の近くに居ようとする子。特定の子の机を運びたがらない子。清掃の一コマを見ても、いろんな事情が交錯します。もし、一人一人がみんなのために嫌な顔をせず清掃に取り組めていたとしたら、そのクラスの学級経営は間違いなくうまくいっているはずです。
そこで、自分も一緒に雑巾掛けをしながら、みんなのために働くことをいとわない利他性と公平性を持った子たちに少しでも光が当たるようにしていきます。例えば、最初に掃除をし始めた子、最後まで掃除をしていた子には、必ずみんなに聞こえる声でお礼を伝えるようにします。また、折に触れて「最後の椅子を毎日降ろしてくれる人を、先生はとても信頼している」というように、全員のために行動してくれる人のことを価値付けていくようにしています。