東日本大震災から13年。福島第一原発事故の影響で全町避難となった福島県双葉郡大熊町では、復興の中心地である特定復興再生拠点区域の避難指示が2022年6月に解除され、ようやく復興が本格的になった。そのシンボルとも言えるのが、義務教育学校と認定こども園などが一緒になった「学び舎 ゆめの森」だ。同校の教育内容の検討から、校舎の設計などで中心的な役割を担ってきた増子啓信副校長に、新しい校舎を案内してもらいながら、同校が目指す教育、災害からの復興に果たす学校の役割などを聞いた。(全3回)
大熊町では、復興の中心地である特定復興再生拠点区域の大川原地区全域の避難指示が2022年6月に解除された。大川原地区には、町役場やショッピングセンターなどがオープン。復興住宅にも入居が始まり、ようやく町の復興が本格的に始まった印象だ。
この復興住宅団地と向かい合う所に、大熊町立「学び舎 ゆめの森」がある。同校は、県内避難先の会津若松市内で22年度に開校した。それ以前は、11年の原発事故の発生以降、会津若松市内の空き校舎で町立の小中学校として教育活動を行っていたが、これらを義務教育学校として再編した。その1年後の23年度に大熊町に帰還したが、年度当初は校舎がまだ完成していなかったため、職員室はプレハブ、子どもたちは役場のエントランスホールや町の公共施設の会議室で学習を続けていたという。
昨年8月に完成した校舎に入ってまず目に入るのは中央のホールと、それをすり鉢状に本棚が取り囲んでいる光景だ。ここを中心に、学習活動をはじめさまざまな活動に使うスペースが放射状に配置されている。「一応、教室という空間は考えていますが、そこで1日を過ごすという発想ではなく、子どもたちは『ホームベース』に荷物を置いたら、そこからそれぞれの場所に移動して学びます。例えば、算数だったら、その学習内容に応じてどこで学ぶのか、子どもと教員が話し合って場所を決めています」と増子副校長は話す。
2階建ての校舎は11のエリアに分かれていて、学童保育や認定こども園も同じ建物内にあり、シームレスにつながっている。小学校のエリアは「のびのび学び室」、認定こども園のエリアは「すくすく遊び室」というように、各エリアに合わせたオノマトペで表現されている。
「このネーミングは、ワークショップで子どもたちがこだわって名付けました。例えば、職員室のエリアは『先生はいつもにこにこして私たちを支えてほしい』という願いから、『にこにこサポータールーム』というエリア名称になっていて、子どもたちの思いも体現する校舎になっています」
すり鉢状の本棚の裏側には隠れ家のように天井が低いスペースがあったり、教室の端にちょっと腰を掛けられるスペースがあったり、「ちょっと隠れつつみんなが見えるというか、なんとなく交ざりたくないけれど、話は聞いていたいというような気持ちのときにも対応できる、多様な居場所があるんです」と増子副校長。
ホール脇には、らせん階段の珍しい構造の場所を設置した。避難していた会津若松市にある世界的に有名な建築「さざえ堂」を模したものだ。そこから2階に上がると、中学校の「ぐんぐん学び室」がある。教科教室型に人文のスペースと数理のスペースを配置し、展示ギャラリーと組み合わせて探究から発表までさまざまな活動が展開できる「ふむふむ研究所」が隣接している。ホールを見下ろせる部分にも椅子が置いてあり、カウンターで勉強できる。ホール全体の音が遮られ、しかも、高い所から全体の人の流れが見えるので、適度に集中でき、中学生はここで勉強にいそしむことが多いという。
「それともう一つ、大熊町ではやはり学校を核とした地域づくりの必要性があると考えています」
復興住宅と向かい合った所には、図工や美術、技術などで創作する部屋があり、地域の人たちと一緒に活動できる。窓を開け放つと地域とつながった大空間が現れ、音楽室も外に向けての発表ステージを兼ね備えている。
ここからは、増子副校長へのインタビューを通じて、こうした教育環境づくりに込めた思いを聞いてみたい。
――新しい学校を創るタイミングで、こうしたユニークな校舎にした狙いは何でしょうか。
これからの人口減少社会を考えたときに、子どもたち一人一人が自分の好きなことを伸ばして、自分で考え決めて動き出すことがちゃんとできて、ゼロからイチを生み出せるようにしなければ駄目だろうと考えたからです。かつての大量生産・大量消費の時代には、標準仕様の四角い教室が並ぶ均質な校舎での学びに、時代の要請があったと思います。しかし、これからの時代、自分で考え決めて行動できる人を育てるには、まずはそのきっかけとして、学習内容に応じて学習する場所を選べる環境が必要なのだろうと考えました。
――東日本大震災に限らず、大きな自然災害で住民が避難を余儀なくされた場合、帰還には数年以上かかることがあります。避難先で学んでいる子どもたちも時間がたてば学年が上がり、卒業・進学していくので、学校が復興しても元のように子どもたちが戻ってくるとは限りません。大熊町は避難から10年以上たっていますから、被災当時の児童生徒はみんな卒業しています。学校を再開するとしても、どれだけの子どもが入学してくるか分からない状況だったわけですよね。
そういうことです。私は震災の時は福島県相馬市の小学校で4年生のクラスを担任していました。その後、16年に教頭として三春町に避難していた葛尾村の葛尾小学校に着任し、三春町から葛尾村への帰還および学校再開を担当した後、19年に指導主事として大熊町の教育委員会に来ました。
そこで当時の教育長から、これからの大熊町の教育と大熊町に戻った後の校舎の設計を考えるというミッションをいただきました。今後どういう教育が必要なのかを考えて調べ始めたのは、それからですね。
震災がなければ、大熊町教委に来なければ、多分何も考えずに今までと同じような教育をやっていたと思います。原発事故による全町避難で町民の皆さんはつらい思いをされましたし、その大熊町に戻って来てゼロから街をつくる、そのための教育を考えた時に、「今までと同じで果たしていいのか」と……。前例のない事態にある町だからこそ前例踏襲はできないし、前例のない教育にかじを切ることが必然だったのかもしれません。
一番大きな転換点になったのは、長野県の大日向小学校でイエナプラン教育を見学したことでした。当時は大日向小学校も立ち上げたばかりでしたが、子どもたち一人一人が自分の目当てに向かって取り組んでいる姿に驚きました。子どもは環境や考え方が変われば、こんなに自分でやるんだな……と。
ちょうどその頃、熊本大学の苫野一徳先生の『「学校」をつくり直す』という本を読んで、その中にあった「緩やかな協働性に支えられた個別最適な学び」というフレーズに「あ、これだな!」と思ったんです。自分のやりたいことに目を向けてやっているのだけれど、一人きりで学ぶのではなくて、その土台には協働性があって、その協働性に「緩やかな」と付けたところに共感しました。
例えば、「みんなでやる」というと、その中にはあまりやりたくない子も入っているわけです。それでパフォーマンスが下がり、「なんでちゃんとやらないの」と言う子が出てきたりして、うまく回らなかったりする。「緩やかな協働性」でイメージしたのは、それぞれやりたいことに向かっているんだけれど、ちょっと分からないことがあったときに、さっと集まって話をして、話が終わればまたそれぞれに戻るような姿です。そういう学びが実現できる校舎にしていくことを大前提に考えました。
――そうして設計されたのが、今の校舎なのですね。
この校舎も最初にプロポーザルで出てきたプランは全然違ったんです。今はもう、設計者には笑い話のように言われるんですが、私に「つまらない」と言われてお通夜のようだったと……。私が「なんで教室が四角なんですか。四角じゃなければ駄目な理由ってなんですか」と尋ねたみたいで、私自身はあまり覚えていないんですが、そこからプランの練り直しをしていただきました。ちなみに、この校舎は1スパンが9.4㍍の二等辺三角形フレームの組み合わせになっています。そのため、ぜんぶ違う形のスペースになっています。
――そもそも部屋は普通、四角いですよね。建築家の側から出るならまだしも、学校の側から「なんで四角なのか」という話が出るなんて、建築家も思わなかったでしょう。
確かにそうですよね。一つとして同じ空間がないのは、「それって子どもと同じだよね」ということです。一人として同じ人格ではない子たちが集まって、それぞれが自分の特性を生かしていくと考えた結果、校舎も同じところに行き着いたんです。
【プロフィール】
増子啓信(ますこ・けいしん) 福島県相馬市出身。大学卒業後、福島県の公立小学校の教員となり、東日本大震災当時は小学4年生の担任。その後、2016年に教頭として双葉郡の葛尾小学校に赴任し、避難先の三春町から学校を戻し、土台を構築。2019年に大熊町教育委員会主幹兼指導主事として着任。町教委の教育理念「温故創新」に基づき学び舎ゆめの森の教育内容を考えるとともに、学び方の多様性に応えられる校舎設計の基本構想、基本計画、実施計画に携わる。人とのつながり、縁を大切に学校経営・運営に取り組んでいる。