イエナプラン校の経験生かす 東京都板橋区の長沼豊教育長

イエナプラン校の経験生かす 東京都板橋区の長沼豊教育長
教育の研究者でイエナプランの学校の校長というユニークな経歴を持つ長沼氏=撮影:藤井孝良
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 約57万人の人口を抱える東京都板橋区に7月、新たな教育長が就任した。元学習院大学教授で、3月までイエナプランの実践で知られる長野県佐久穂町にある茂来学園大日向中学校の校長を務めていた長沼豊氏だ。長沼氏は教育学の中でも特別活動やボランティア学習を専門とし、近年は部活動の地域移行を各地で精力的に支援してきた。そうした教育長としては異色の経歴を持つ長沼氏が、その持ち味を生かしてどのような教育施策を打ち出そうとしているのか。就任してまだ間もない7月中旬、教育長室を訪れた。教育の最上位の目的として長沼氏が掲げるのは「人が幸せに生きるため」。学力向上、不登校、そして部活動の地域移行と課題が山積する中、各学校が独自性を発揮することで多様な選択肢をつくると、「教育の板橋」に向けた思いを語った。

イエナプランの経験を生かし、学力や不登校の課題に挑む

――教育長に就任してからまだ間もないですが、板橋区の教育課題をどのように捉えていますか。

 もともと板橋区には教育委員として関わっていたのですが、坂本健区長から教育長就任を打診されたときは戸惑いました。私自身はずっと教育に関わってきました。最初は学習院中等科の教師で、その後、学習院大学で教職課程や教育学科の学生らを教えました。一昨年から2年間、大日向中学校で全国的にも珍しい中学校でのイエナプランの実践に取り組みましたが、いずれも私立学校なんです。

 だから坂本区長には「そんな私でも大丈夫ですか」と聞いたんですが、区長も政治の世界に飛び込む前は民間企業で活躍していた方だったので、「私もそうですよ」との返答でした。そう言われて安心しましたし、勇気が出ました。

 いわば「60歳からの公務員」です。でも、自分にとっての仕事の集大成ではないけれど、教育界でいろいろなことをやってきた経験の全てを注ぎ込むつもりで取り組もうと思っています。

 前任の中川修一教育長からは、引き継ぎの際に、「学力向上」「不登校」そして「部活動の地域移行」を喫緊の課題として託されました。

 学力向上は中川前教育長のころからかなり力を入れていて、その成果も出てきています。一方で、現在の取り組みだけでは天井が見えてきた感もあるので、それを突き破る必要がありそうです。

 その鍵を握るのは、やっぱり授業だと思うのです。先生たちに、子どもたちがワクワクするような授業をどんどんやってもらう。既存の方法にとらわれずに、です。

 例えば個別最適な学びを進めていく上で、単元内自由進度学習に取り組んでいくことが考えられます。そこで生かせるのが、異年齢の子どもたちが主体的に学びや生活に取り組んでいくイエナプランの考え方です。もちろん、日本の公立学校でいきなりイエナプランをやるのはそう簡単なことではないですが、授業を変えるヒントになることは確かです。もう一斉授業だけでは限界を迎えている中で、多様な授業の可能性を学校や先生方と一緒に考えていこうと思っています。

 結果的にそれが、不登校を生みにくくすることにもつながります。板橋区ではずっと不登校の子どもが多かったのですが、それがさらにコロナ禍を経て1000人を超えました。これまでも、保健室以外の居場所を全ての学校につくるなど、学校内外に不登校の子や教室に入れない子の居場所を増やしてきました。しかし、これらはあくまで対症療法的なものなので、予防策に着目していく必要性があると感じています。

 そのためには、やはり学校が楽しくて居心地のいい場所になっていなければいけない。

 単元内自由進度学習だけでなく、思い切って、もっと学校の裁量で、多様な子どもに合わせた教育課程を柔軟に編成できないかと思っています。その可能性の一つとして、学びの多様化学校(いわゆる不登校特例校)についても、研究を始めたところです。

 不登校は、子どもが悪いのではなくて、現行の学校制度が多様な子どものニーズに応えられていないことに問題の本質があるんです。だから、板橋発でどんどんいろいろなことを変えていきたいですね。

部活動の地域移行は一歩一歩着実に

――これまでもさまざまな自治体で部活動の地域移行をけん引してきましたが、板橋区の部活動の地域移行はどのように進めますか。

 部活動の地域移行を着実に実現していくには、その地域に合ったやり方で進めていく必要があります。板橋区は特別区ですが、昔から地域社会がしっかり学校を支えている土地柄で、地域には部活動の教育的意義を大事にしている方もいると聞きます。自分自身が部活動で成長できたから、子どもたちにもそうした場を提供したいと願う保護者も多いでしょう。

 だからこそ、あまり性急に進めるのではなく、一歩一歩、理解を得ながら着実に進めていこうと思っています。私が助言者として関わってきた静岡県掛川市や長野県松本市は、2026年度半ばから平日も含め学校の部活動を完全に地域に移行する目標を掲げていますが、それはさすがに板橋区では難しく、2030年ごろを目指しています。すでにその第一歩として、「女子サッカークラブ」「eスポーツクラブ」「ロボット数学クラブ」「サイエンスクラブ」といった中学校の既存の部活動にはない地域クラブがつくられています。まずはその地域クラブでノウハウを蓄積し、「地域クラブって面白いね」と評判になれば、少しずつ既存の部活動にも広げていけると考えています。

 板橋区の小中学校は全てコミュニティ・スクールになっているので、それぞれの学校が地域とタッグを組んで、地域の人や資源を使ってどんな部活動の地域移行ができるかを模索していければ、いろいろな可能性が生まれそうです。そうやって、地域に支えられ、地に足の着いた地域移行をしていきたいですね。それは地域移行というよりも、まさに私の持論でもある「地域展開」と言えます。

多様なニーズに応える選択肢と教育が支える「人の幸せ」を生み出す

長沼氏は教育の最上位の目的は「人が幸せに生きるため」だと語る=撮影:藤井孝良
長沼氏は教育の最上位の目的は「人が幸せに生きるため」だと語る=撮影:藤井孝良

 ――改めて、板橋区の教育が目指すものとは何でしょうか。

 この前、高島平地区にある小学校の授業を見てきました。高島平は今、外国籍の家族が増えていて、学校によっては約5人に1人が外国にルーツのある子どもたちという、国際色豊かな地域になっています。その授業では、教師用端末に同時翻訳アプリを入れて、その子の母語で授業が受けられるようにしていました。校長先生に聞いたところ、子どもたちは日本語さえ覚えてしまえば、めきめき学力を伸ばしていくそうです。これもまた、多様性に応えることの一つだと思います。発達障害のある子どもたちへの支援、不登校の子どもたちのニーズに応える学校、これら全て、多様性への対応です。教育行政が今すべきことは、こうした多様性に合わせて、選択肢を増やすことなのです。

 そしてもう一つ、私は教育長に就任した直後、教育委員会の職員に向けてこう問い掛けました。

 「教育は何のためにあるのか」

 私は、「教育とは人が幸せに生きるためにある」と考えていて、それを最上位の価値に掲げ、教育長としてさまざまなことに挑戦したいと宣言しました。これまで40年ほど教育に関わってきて、教育を仕事にするとはどういうことなのかと振り返ってみると、結局、幸せに行きつくんです。人にとって学ぶことは幸せだし、そこで得た知識や経験を自分自身や他の誰かのために生かしていくことも幸せを生み出すんです。人はその繰り返しの中で生きています。

 そして、その幸せの実現に関わっているのが、教師や校長、そして教育委員会の職員です。だから、自身も教育という仕事に携わっていることにワクワクして、幸せを感じてほしい。特に若手をはじめとして、教師には長時間勤務や負担を減らしていくこと以上に、精神的なゆとりや充実感を得られるようにすることこそ、意味のある働き方改革になると思います。

 ちょうど今、小中学校の校長一人一人と面談をしているところなのですが、多様なニーズに応える選択肢をつくっていくには、学校がそれぞれの特色を打ち出していくことが不可欠です。その要は校長です。自分がやりたいと思う学校づくりをやってもらいたい。私も2年間、大日向中学校の校長をやったので、校長という仕事の大変さや、ある種の孤独感も分かります。でもだからこそ、前に進んでもらいたいんです。これまで会ってきた板橋区の校長は、みんな人柄も教育観もすてきで、しっかりとしたビジョンを持っている方ばかりでした。そのビジョンの実現に向けて支えてくれる教職員の姿も思い浮かびました。それを「バックヤードとしての教育委員会」が支えていきたい。

 実は、教員研修に私を混ぜてもらえないかとも思っているんです。これまでいろいろな自治体の教員研修の講師をしてきましたから、手前みそですが、私はいろんな教育の引き出しを持っていますし、ワークショップも得意です。フラットな立場で、みんなで教師の悩みに耳を傾けたり、これからの教育について語り合ったりできたらいいなと、うずうずしています。

 板橋の教育ではなく、「教育の板橋」にしていく。地域も学校も行政も一緒になって、教育で多様性と幸せを生み出していきたいですね。

 

【プロフィール】

長沼豊(ながぬま・ゆたか) 東京都板橋区教育長。学習院中等科教諭、学習院大学教授を経て、2022年4月から大日向中学校校長として、イエナプランに基づく学校づくりを進める。今年7月から現職。専門は教科外教育(特別活動、部活動、ボランティア学習など)。『人と人をつなぐと、教育も社会も変わる』(キーステージ21)など著書多数。

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