私的な話ではありますが、私は中高の数学免許も持っています。子どもの頃にそろばん教室に通っていたせいなのか、数学がずっと大好きなのです。
数学の代表的なものに、関数があります。不親切教師の願いは、いつでも「プラスの関数たれ」というものです。この用語自体は落合陽一氏の『2035年の人間の条件』で紹介されているもので、どういうことかというと、「自分が関わることで周りが良くなる存在であれ」ということです。
例えば、相手が明るくなる関数、相手のひらめきを促す関数、相手を安心させる関数、問題解決につながる関数などです。あくまで自分の存在は関数という機能であり、そうなるのは周囲であり、教室で言えば子どもたち自身という考え方です。教師自身がプラスの関数であると同時に、プラスの関数たる子どもを育てるということです。
自身は、プラスの関数として存在しているでしょうか。あるいは、残念ながら、逆でしょうか。この考え方は、非常に汎用(はんよう)性があります。また「周りが悪い」と言っている状態であれば、存在はしていても、関数ではありません。それは周囲に巻かれるだけの、渦の中に漂う木の葉のごとき存在です。関数たる人物は、小さくても渦を巻き起こす存在です。
教師として力のある人は、全てをプラスに変えてしまいます。マイナスの関数すらプラスに変換します。否、一見マイナスであればあるほど、大きなプラスに転じてしまうのです。クラスの「どうにも手をつけられない」存在の子どもであればあるほど、リーダーとして力を発揮させたり、誰よりも優しい子どもに変えてしまったりします。
歴史上に、その好例があります。木戸孝允のような天才を育て、高杉晋作のような暴れん坊も見事に歴史の改革者たるリーダーに育てた人物。しかも、自らが上に立って教えることはせず、あくまで相手の主体性を尊重した人物。――実は、吉田松陰こそが不親切教師の究極系なのです。
自分自身の子どもへの関わり方、指導法は、本当にプラスになっているのでしょうか。管理職に対して、職員室の同僚に対しては、どうでしょうか。本当に相手のためを思ったとき、私にできること、なすべきことは、何なのでしょうか。
「不親切教師のススメ」は、ある意味で常識外れな提案をしている面がありますが、それは全ての教師に「プラスの関数たれ」というメッセージなのです。(おわり)