学校でワークルール教育が行われることは重要だが、内容によっては悪影響ではないかという危惧もある。それは、職場の労働者の義務や職場秩序ばかりを過度に強調するワークルール教育が行われることだ。
学校では、子どもの人権を侵害する不合理校則(標準服強制、服装や持ち物指定、放課後の行動規制など)が社会問題となり、生徒指導提要で校則の見直しが言及されても、いまだ不合理校則を順守させる指導が続く。
そんな指導の延長線上で考えると、使用者の指導に対して、従順な労働者像を想定したワークルール教育が行われる危険性がある。特に、子どもたちの就職指導の中で行われる場合、就職先で採用してもらいやすい、従順な労働者像が追い求められがちだ。
指導に関わる教員自身の劣悪な労働環境の影響も指摘せざるを得ない。他職場と比べ異常な長時間労働が放置され、時間外勤務はほとんどが「自主的」活動とされ、残業代も払われず、休憩も取れず、ハラスメント対策も不十分だ(パワハラ・セクハラだけでなく、保護者などによるカスハラ被害も深刻)。労働法で守られず聖職論と自己責任論にとらわれがちな教員が、職場での違法行為に対し自分を責めずあらがえるよう権利行使の意味を子どもたちに伝えることを期待できるのかという不安もある。
「ブラック企業」は、「社会人としての責任を果たせ」「契約だから守れ」「会社がつぶれてみんな失業してもよいのか」などとゆがんだ理論武装を行い、本来守られるべき労働法を脇に追いやり、労働者に違法行為を受け入れることを強いる。学校と職場の「秩序」「労働者の義務」(本来労働者が負担すべき義務ではない場合が多い)の指導は親和性が高いのではと危惧されるのだ。ワークルール教育が、若者に対して「トラブルを受け入れるのが社会人としての通過儀礼だ」というゆがんだ社会の常識を植え付ける場になってしまえば、職場の違法行為を助長することになる。
日本労働弁護団意見書が、「基本理念」として「労働者の義務や自己責任論が安易に強調されることによって労働者の権利・利益が不当に損なわれることのないよう、特に留意しなければならない」と指摘するのは、そういった危惧からだ。
ワークルール教育の出発点は、学校を卒業して間もない若者が「ブラック企業」で被害に遭うような、職場での労働トラブルを防ぎ、解決することにある。ワークルール教育は、労働者を自己責任論から解放し、権利行使の意味を伝えるような内容で実施されねばならない。