6月初旬に出された文部科学省の「学びの保障」総合対策パッケージには、「学びの保障」という言葉とともに「学習保障」という言葉が出てくる。コロナ禍によって奪われた学びや学習を取り戻し、今後も学習活動をストップさせないことが、その主眼である。
ただし、本連載で繰り返し述べてきたように、もともと日本社会には親の学歴や収入などの社会経済的背景による教育機会の格差があり、コロナ禍という特殊な状況下においても多様な格差があらわになっている。そうした状況の中で求められるのは、全体的な学びの保障とともに、学習機会の格差を埋め合わせること、そして今後、いかなる状況でも教育機会の格差が生じないように努めることである。
コロナ禍による教育機会の格差は学力の格差をもたらし、学校再開以降、教師たちは必死になってその補填(ほてん)を行ってきた。失われた機会の格差を埋めることは、文字通りに改めて機会を提供することのみを意味しない。その教育機会で身に付けられるはずだった学力を付けさせようとする営みでもある。それが、「学びの機会の保障」を超えた「学力保障」である。
例えば、コンピュータがない家庭にコンピュータを貸し出して、「学びを保障できた」「教育機会の格差がなくなった」と考えるのは早計である。条件や環境が整ったとしても、学び方や学習以外の環境の違いも、学習の結果に違いをもたらすからだ。そのコンピュータがどのように用いられ、どのように力が付いたのかが問われなければならない。学校は機会を提供する場であるとともに、力を付ける場でもあるのだから。
学力保障は魅力的な概念だが、それについて考え出すと「では、どんな(どこまでの)学力を保障すればよいのか」という疑問にぶち当たる。それに対して「読み書き計算」という場合もあるだろうし、「高校入試のテストに出てくる最初の問題が確実にできる程度」という場合もあるだろう。明確な答えを求めることは、それだけで教育学の一大テーマになり得る難しい問題である。
しかし、実践から学力保障の観点が抜け落ちると、連鎖的に格差は拡大していく。大切なことは、授業における学力獲得の道筋を確保することと、低学力の子に対する補償の手立てを用意して、学びのプロセスを取り戻すことである。
もちろん、これは一人の教師だけで成し遂げられるものではない。教職員集団や地域の人も含めた「学校」で取り組むのが望ましいが、学校が一つになることもまた容易ではない。そこで最終回となる次回は、危機的状況における学校の在り方について考えてみることにしよう。