私は以前、教育分野で活躍する先輩から、「伝統的な学校に対してつくられてきた進歩主義的な学校は全て失敗してきた」と言われたことがある。伊豆大島の三原山をハイキングしながら語り合ったときのことだ。
その方は、次のように続けた。「結局、自由と規律のせめぎ合いになり、自由は放任へと堕していく」「もしくは、行き過ぎた自由への反省から、伝統的な学校教育へと回帰していく」と。
伝統的な学校教育の限界を感じ、進歩主義的な教育の具現化を模索していた私は、その言葉に対して釈然としないものを感じていた。しかし、進歩的な教育を目指す学校現場でしばしば起こる「混乱」を目にしてきた私にとって、その言葉は心の中によどみのように重く残り続けた。
私の学級で子どもたちに大きな「自由」を与えたことで起こったことは、明らかに学びからの逃走であり、混乱であった。そして、私はその先輩の言葉の通り「自由」と「規律」のせめぎ合いの中でひどく葛藤していた。
私は、伝統的な学校への回帰ではない方法でその混乱を乗り越えるために、子ども自身の「非認知能力」の向上、中でも「内発的動機付け」に注目した。
動機付け理論の大家であるエドワード・デシは、「内発的動機付け」の重要性を主張し、その源泉として「自律性への欲求」「有能感への欲求」「関係性への欲求」の3つの欲求を指摘した。紙幅の都合で詳細は省くが、この3つの欲求を満たしていくことが内発的動機付けを高める上で欠かせないというのだ。
要するに子どもは「自分で選び自分の意思でやっているのだという実感を最大限に持ち(自律性)」「やり遂げることはできるが簡単過ぎないタスクを与えられ(有能感)」「教師から好感を持たれ、価値を認められ、人として尊重されていると感じる(関係性)」ときに、内発的動機付けが最大化するということである。
考えてみてほしいのは、伝統的な学校がこの3つの欲求を著しく満たしにくい環境になってはいないかということだ。すなわち伝統的な学校において子どもたちは「教師から与えられた均一な課題を、管理的な環境の中で日々やらされている」のではないだろうか。
私は、子どもたちの自律性の欲求を満たすために「標準化」を「カスタム化」へ、有能感の欲求を満たすために「時間ベース(履修主義)」を「到達ベース(習得主義)」へ、関係性の欲求を満たすために「競争」を「協働」へ転換することを学級で模索し始めた。