工業時代の学校においては「標準化」が全てだ。同じ年代の子どもたちが、同じ学級で、同じ内容を、同じ時間に、同じペースで、同じ方法で学んでいる。子どもたちの興味関心や能力が違うにもかかわらずだ。果たしてそれでよいのだろうか。
私は思い切った決断をした。今後は一律の宿題を出さないことを宣言し、「自分で選んだ教材を、自分で立てた計画で、自分のペースで進めること」を奨励したのだ。その決断は子どもたちの学びを「標準化」から「個別化」 へと大きくかじを切る初めの一歩となった。
「宿題をなくす」と伝えたときの子どもたちの反応を忘れることができない。子どもたちが「宿題」というものに対して、いかにネガティブな印象を持っているかを改めて実感した。私たちは「宿題」が当たり前の学校文化の中で、その功罪について思考停止になっているのかもしれない。
「そうは言っても、宿題をなくしてしまったら、子どもはサボるに違いない」と思われるかもしれないが、ほとんどの場合、長い目で見るとそれとは逆のことが起こる。
ある児童は2学期中に1年分の算数ドリルを終え、3学期からは次の学年のドリルの予習を始めた。また、ある児童は読解問題に集中して取り組み、1学期中にその1年分のドリルを全て終わらせ、夏休み以降は次学年の内容に取り組んだ。また、漢字が苦手だったある児童は毎日漢字50問のプリント数枚に集中して取り組み、全てのテストで満点を取るまでになった。
時にはサボってしまうこともあったが、そこは金曜日に行われる振り返りとフィードバックが力を発揮した。毎週金曜日にその週の課題の達成状況を個別に振り返り、フィードバックする時間を設けたのだ。もし、計画通りに取り組めていない場合、子どもたちはその事実に金曜日には向き合わなくてはいけなくなる。そのため、学習に向き合えない姿勢は日を追うごと、月を追うごとに解消されていった。子ども自身のメタ認知が促進されたとも言えよう。
「個別化」は「標準化」よりも複雑なシステムだ。「個別化」を進めれば、 30人学級では30通りの学びが生まれることになるからだ。全員を一律に「標準化」する方がシンプルで分かりやすいのは明らかである。ましてや全ての教科の全ての学びを 「個別化」するとなると、その複雑さは想像を絶するものがあるだろう。
私はいずれ全ての教科の全ての学びが個別化されるべきだと考えている。しかし、一気にその変化を起こすのは現実的ではない。そのため、最初の一歩として「宿題(家庭学習)」を個別化することをお勧めする。授業時数や学習指導要領などの「標準化」に縛られた分野よりも自由度が高いからだ。