教員をしている友達に、「今、2年生の担任だよ」と伝えると、こう言われたことがある。
「低学年の担任は、仕事のできない人か、仕事をしない人がやるよね」
確かに高学年の担任はコマ数も教科数も多く、宿泊行事もある。学校全体を引っ張る仕事も高学年主体で行うことが多く、6年生の場合は卒業関係の仕事も山のようにあってとにかく忙しい。加えて、高学年の子たちには特有の難しさがあることから、仕事ができる人しか務まらないという考え方があるようだ。
高学年の担任ができてこそ一人前。低学年の担任は低学年しかできないから持たされる。今まではそういうことを言われると、怒ったり、悲しんだりした。なぜそんなことを言うのだろうか、高学年がそんなに偉いのか、と。
だけど今回は違った。低学年のときに担任をした子どもが6年生になった際、ある保護者がこんなことを伝えてくれた。
「あんなに大変だった子たちが、すごくすてきな6年生になりました。こんなにすてきに育ったのは、低学年のときに温かく、だけど大切なことはしっかりと教わってきたからだと思います。やっぱり、積み重ねなんですよね。低学年のうちに何が大切かをきちんと学んだこの子たちは、とても良い6年生になりました。本当にありがとうございました」
今までやって来たことが報われたような気がして心が軽くなったと同時に、大切なことに気付かされた。高学年担任がすごいとか低学年担任は仕事ができないとか、そういうジャッジは本当にどうでもよいことなのだと。
私はA先生みたいに一つ一つ丁寧に、低学年のうちに教えられるだろうか。私はB先生みたいに元気いっぱいの中学年を引っ張り、自信をたっぷり付けさせて高学年に送れるだろうか。私はC先生みたいに高学年の子どもたちが、学校を引っ張る自覚を持てるような指導をできるだろうか…。
それぞれの学年に魅力があって、それぞれの学年に大変さがある。求められた場所で求められたことをただただやっていく。どの学年に対しても敬意を持つ。当たり前のことだけど、当たり前にやっていきたい。
高学年の方が大変だと考える人が一定数いる状況については、個人の問題ではなくシステムの問題も少なからずあるのだと思う。高学年を担任する先生に、仕事が集中してしまうような構図ができている側面もある。高学年を担任すると、苦しい思いをしている子どもたちと関わらねばならない状況もできて来る。そうした仕組みが少しでも変わっていけば、担任する学年に対する考えも、少しずつ変わっていくのかもしれない。