第3回の主題は広島の被爆とその回復に努力した人々の奮闘物語である。被爆は、広島市とその周辺の地域生活を一挙に壊滅させた。第1回で取り上げた『はだしのゲン』の主人公・元は偶然、塀の陰にいたことで助かり、一人で生きていった。このような一人一人の物語とともに、地域の生活にとって不可欠なものの事例として水道と電車を取り上げる。
水道は広島市では水道局が管理・運営している。1898(明治31)年に軍用民間用として設置された。被爆から6時間後、午後2時過ぎには、堀野九郎という技師の努力により、再開される。
それでも多くの水道管が壊れていたので、広島市全域に水が行き渡ったわけではないが、多くの人に潤いを与えた。広島市水道局は不舎昼夜(昼夜を問わず)市内に水を届け、「市民生活の水を保証する」というモットーを実践したのである。
同じく、今も広島市民の足となっているのが、広電(ヒロデン)の愛称で呼ばれている市電である。戦争中は人員が不足する中、広島電鉄家政女学校の生徒たちが運転手や車掌を務め運行しており、被爆から3日後の8月9日には己斐駅(現在のJR西広島駅)から西天満町電停までの間で一番電車を走らせる。
これら広島市の復興への第一歩は『命の水』や『一番電車が走った』などのタイトルで紙芝居、テレビドラマにもなり、多くの人々に知られるようになった。水道や電車の再開は、広島市が被爆したのち、立ち直るための一つの証しであるとともに、人々の活力を創り出した。
私たちが生活している地域は、個々人の生活の集まりである。それが地域生活である。この生活をうまく進めるには、各家庭の生活の基盤となる水、電気、ガス、そして地域生活を循環させる交通も重要なものとなる。
被爆後に、それら地域生活の基盤となるものを復興させ、人々が何事もなく生活を営んでいけるようにする。これが「平和」なのである。
私たちは日頃、何事もなくいつもの生活を送ることができており、そのおかげで順調に、自分たちが目指していることをほぼ成し遂げることができる。人々があれこれと思っていることを何の支障もなくやり遂げられること、計画したことや頭にあることを日常生活の延長上で進められること、これこそが平和な生活なのである。
今回取り上げた『命の水』も『一番電車が走った』も、こうした日常生活を取り戻すことに努力した人たちの物語である。そうした先人の努力が、現在の広島やそれぞれの地域生活を「平和」に営むことができる基盤を作っているのである。