今回取り上げる青い目の人形物語も、社会科や道徳の教科書で取り上げられているので学んだ方もおられるだろう。
青い目の人形に関する特定の物語があるわけではない。20世紀に入り、中国市場を巡って日本とアメリカの間で政治的な対立が表面化した。そうした中、20年以上日本で暮らし宣教師として布教活動や教育活動をしていたアメリカ人のシドニー・ギューリック博士が日米関係を改善するため、「友情の人形」を送ろうと1925(大正14)年に世界児童親善会を結成し、日本に人形を送ろうと呼び掛けた。ギューリック博士は「国際理解や国際親善は大人になってからでは遅い。世界の平和は子どもから始めるべき」をモットーにしていた。
多くのアメリカ人の協力を得て日本に人形を送る「人形計画」が進められ、この計画に渋沢栄一が共感し、仲介役を買って出た。外務省や文部省(当時)へ協力を願い出て、アメリカからの人形の受け入れに尽くした。27年には1万2000体以上の人形が横浜、神戸の港に12艘の船で運び込まれた。
この青い目の人形はFriendship Doll(友情の人形)とアメリカでは呼ばれている。寝起きするたびに目をぱちくりし、腹を押すと「ママー」と声を出すことから、子どもたちはびっくりしたという。当時の日本では、童謡の「青い眼の人形」がはやっていたため、多くの人から「青い目の人形」と呼ばれたのである。
ギューリック博士は「返礼無用。それよりも、あなた方からのお手紙をいただきたい」と伝えていた。しかし、渋沢は外務省からの依頼もあり、クリスマスに日本からも人形を送ろうと募金を呼び掛け、多くの協力を得て「市松人形」58体を返礼した。
日本とアメリカの間ではこのような人形の交流があったが、その後、戦況の悪化で青い目の人形は、敵国のものとして竹やり訓練の的にされたり焼かれたり壊されたりした。しかし、全ての人形がそうであったわけではなく、幾つかの学校では小屋の片隅に隠されたり土中に埋めて保存されたりし、戦後に取り出されて今も大事にされているものもある。また、このような人形の交流、相互の友好を新たに学ぶ学校もあり、「青い目の人形物語」を通して子どもたちが平和について考える契機にしている。
国家や社会の体制変化によって、同じものが友好的なものになったり敵対的なものになったりする。あなた、あなたたちなら、どうするか。
青い目の人形とその取り扱いを通して、平和に関する各自の考えを作り出すとともに、現在も続いているウクライナでの戦争をどのように考えるのかへとつなげ、子どもならではの視点で平和を考える機会をつくり出すことが求められている。