前回は、「何のために学力調査をするのか」をテーマに取り上げました。学力調査の「コスト」に十分に留意した上で、学力格差を克服するために、適切な調査設計の下、学力格差に関するデータを収集・分析すべきというのが結論でした。それら前回の内容も含め、本連載全体を通して、議論の前提にあるのは「学力格差は縮小すべきだ」という信念です。
「学力格差は縮小すべきだ」と考える根拠は何でしょうか。第1回では、学力格差はなぜ問題なのか(なぜ縮小すべきか)という問いについて、「本人の努力や選択以外の要因、すなわち、自分がコントロールすることができない環境要因が学力の形成に関わってくるのは不公平(アンフェア)だと考えられるから」と述べました。「公平性の価値を信じるからこそ、学力格差を縮小すべきだ」と考えるわけです。教育基本法の第3条(教育の機会均等)を持ち出して説明してもよいでしょう。
ところが、格差のない公平な社会、あるいは教育の機会均等が実現した社会には、問題点も潜んでいます。例えば、「生まれ」による制約がない公平な社会では、学校でうまくいかなかった子どもや貧困に陥ってしまった人々は、社会に対して不満を述べることができません。なぜなら、うまくいかなかった原因は、社会ではなく本人にあると見なされるからです。「教育の機会均等は実現している。にもかかわらず、低学力にいる(あるいは貧困状況にいる)というのは、個人の努力不足の問題だ」というわけです。こうした自己責任の言説がまん延するようになれば、他者への尊重が生まれず、ギスギスした住みにくい社会となってしまうかもしれません。
また、格差を解消すること、つまり公平な社会を実現することは、貧困を解消することを意味しません。誰もが社会的に成功するための平等な機会(チャンス)を得たとしても、貧困を生み出す社会構造が変わらなければ(椅子取りゲームの状況が変わらなければ)、誰かが貧困に陥ってしまうという問題は解決されません。私たちが求めるのは、貧困に陥ってしまう可能性が平等である社会ではなく、全ての人が貧困に陥らないような社会であるはずです。
公平性という価値の追求の下、学力格差の解消を目指すことは重要な社会的課題です。しかし、そこには他者への尊重を傷つけ、人々を排除してしまう危険性が潜んでいます。こうした危険性に自覚的になるためにも、「学力格差は解消すべきだ」という信念を疑ってみることも、ときには必要ではないでしょうか。