今回はアンネ・フランクの日記とともに、野村路子『15000人のアンネ・フランク-テレジン収容所に残された4000枚の絵』(径書房、1992)を取り上げ、アンネだけでなく、多くの子どもがナチスによるユダヤ人政策の犠牲になったことを取り上げる。
アンネの日記は有名なので多くの人が読まれているだろう。ユダヤ人家族に育ったアンネがヒトラー政権の政策から逃れるため、隠れ家で父親から誕生日祝いにもらったサイン帳に書き続けたのがこの日記(1942年6月12日~44年8月1日の2年余り)である。
支援者であったミープ・ヒースがフランク一家の隠れ家でこの日記を見つけ、保管し続けた後、戦後一人生き残った父オットーに手渡した。父は娘の抱いていた戦争や迫害、差別のない世界への思いを人々に伝えたくて出版した。
アンネの日記だけではなく、子どもたちが書き残したものは数多くある。その一つに収容所に描かれた絵画がある。野村路子は1989年に当時のチェコスロバキアのプラハで偶然、墓地隣の建物に飾られていた絵に出合う。それはテレジン収容所で、絵の先生が収容所の子どもたちに描かせていた絵であった。野村は帰国後もこれらの絵が頭から離れず、絵の展覧会を開きたいと思い、チェコスロバキア大使館に要請した。プラハのユダヤ博物館も快諾し、150枚の絵(レプリカ)の貸し出しを許可した。
野村の努力の結果、91年4月に埼玉県熊谷市のデパートで第1回展覧会が開催された。この間のエピソードと絵は、先述した『15000人のアンネ・フランク』や『テレジンの小さな画家たち-ナチスの収容所で子どもたちは4000枚の絵をのこした』(偕成社、93)で紹介されている。また、小学校6年の国語教科書(学校図書)にも「フリードルとテレジンの小さな画家たち」として掲載されており、読まれた方も多いだろう。
テレジンの収容所は、アウシュヴィッツなどへの中継収容所であった。テレジン収容所にはフリードル・ディッカー・ブランディズという絵の先生がおり、子どもたちに絵を描くことを通して生きることを教えていた。これらの絵を野村がたまたまプラハで見たものである。
野村の作品は、日記を残したアンネ・フランクとともに、絵を残した子どもたち(野村は15000人のアンネ・フランクと称している)を「チョウ」と表現している。チョウには「早く自由になりたい」「家に帰りたい」という子どもたちの願いと希望が表わされている。日記を書いたアンネも絵を描いた子どもも人として生きたい、生き続けたいという願いを持っていた。平和は人種・民族に関係なく、全人類に関わることなのである。