今回は先生やボクにとって、非常に耳の痛い話かもしれない。でも、大事なことなので聞いてほしい。
先生は問題解決に走りがちな傾向がある。ある時期、ボクは学級の中の問題をつぶして回っていた。誰かと誰かがトラブルになっている、ある子が宿題をずっと忘れてきている、算数の進み具合が良くない…。学級にはたくさんの問題があり、日々生まれ続けている。
その問題を解決するのが先生の役割だと信じていた時期が、ボクにもあった。まるで監視するのが仕事のように、口を出しては関わり続けていた。
もうちょっとこの「問題解決に走る」の解像度を上げたい。なぜ先生が問題解決に走りがちになるのか、それは問題解決が分かりやすく、正当化されやすいからだと思う。
問題解決に走りがちになるとき、感じているのは焦りなのかもしれない。クラスは伸びているときもあれば、その場にとどまっているときや後退しているときもある。ただ成長が見えないとき、先生は焦りがちになる。
「何か手を打たなければ…」
そんな焦る気持ち、つまり成長を感じられないことに対してはっきりとした手を打てないとき、問題解決に向かってしまうのではないか。自覚的であるならまだいい。無意識に問題解決に走ってしまうのは危険信号だ。考えてみてほしい。問題は解決されても何も生み出さないことを。問題がなくなった状態というのは「0」であり、問題がなかった頃に戻るだけだということを。
ではどうしたらよいのか。ピーター・M・センゲらの『学習する学校―子ども・教員・親・地域で未来の学びを創造する』(英治出版)の中でも語られていることだが、望むものは何か、ビジョンを明確にすることから始めたい。「どうやったらあの子は落ち着くんだろう」ではなく、「どの子も安心できる教室をつくるには?」に変えてみる。問題解決をビジョンの創造に変えてみるのだ。
染み付いた問題解決の習慣を変えるのは非常に難しい。問題解決をしていれば仕事をしているように自分では思える。往々にして、問題解決がうまい先生の評価は高い。
でも、ボクらは本当に望むものを生み出していきたい。そのプロセスの中でささいな問題がなくなることも分かっている。このビジョンをつくるには繰り返しの練習が必要。特に自分の「頭の中の問い」を書き換える必要がある。ボクがいつもやっている習慣を一つだけ紹介したい。それはビジョンにつながる定型文を持つこと。
「今日がどんな一日になるといい?どんな一日にしたい?」
一日をそう考えることから始めてみるんだ。それだけで現実が変わっていくのを意識できるだろう。