「自分を広げる」の2つ目のテーマは「アンラーンできる環境に身を置く」だ。
『Unlearn 人生100年時代の新しい「学び」』には、アンラーンについて次のように書かれている。
「アンラーンとは何か? 学んだことを忘れること? 学ばないこと? ──いいえ、そうではありません。アンラーンは学びの否定ではなく、これまでに学んだ知識や身に付けた技術を振り返り、さらなる学びや成長につながる形に整理し直すプロセスです」
これからの時代はこのアンラーンが、インプット以上に大事だと言われている。
話は変わるが、ニュージーランドの学習指導要領は「テ・ファリキ」と言う。現地の言葉で「織物」の意味だ。「自分(先生)の色を織り込んでいく」という余白があるところも含めて、優れたメタファーに感心する。織物には未完成というニュアンスもあり、「先生が一緒に完成させていく」ようなイメージも、なんだかしゃれている。
アンラーンには、この「織物」のイメージがある。要するに組み直すことだ。揺さぶられるぐらいの学びや経験があったことで、自分のマインドセットを新たに組み直す。そんなイメージだ。冒頭の「整理し直す」プロセスに近いのではないだろうか。
子どもの頃、漢字学習はたくさん書くことが大事だと教わってきた。ある時、実は書き過ぎるのは、かえって良くないという考え方もあることを知った。
「えっ!?」
その時、自分のやってきたことを否定された気持ちになり、一瞬動揺した。そこを越えると、自分への問い掛けが始まった。
・自分がやってきたのは思い込みによるものじゃないか。
・それはいつ何によってもたらされたのか。
こうやって他者の存在や考えで、自分の常識を疑う機会が生まれてくるのだ。
アンラーンは、過去のこだわりを捨てることではなく、むしろ他者に適した形に変化させて組み直すこと。自分の意見とは違う他者により、自分のマインド・在り方を変化させて、お互いにとってハマるような形に組み直していくこと。だから異質な他者が必要なんだ。
孫泰蔵著『冒険の書 AI時代のアンラーニング』にも、常識を捨て去り、根本から問い直し、その上で新たな学びに取り組む「アンラーニング」の重要性を次のように説いている。
「ラーニングは一人でもどこでもできます。しかし、アンラーニングは自分だけではなかなかうまくいきません。アンラーンしようとしている人と交わる中で、対話を通じて初めてできるものなのです」
他者を受け入れられるその気概こそ、アンラーンには必要。自分のやってきたことが唯一の正解じゃないと思う気持ちが、同僚や子どもとの関係性を豊かに耕していくんだ。