遊びになる授業を考え、子どもたちと共に創っていく道のりは、決して平坦ではありませんでした。山あり、谷あり。考えて試して、トライアンドエラーの連続でした。今回はそんな悪戦苦闘する中で見いだした、遊びで授業を創る上で大切な教師の役割を紹介していきます。「子どもを見取る」「学習材・環境・活動に教師の指導性を埋め込む」などさまざまな工夫がありますが、その中で特に大切なのが「学びの風呂敷を広げること」だと考えています。
風呂敷とは子どもたちが自由に活動できる範囲の例えです。そして、この風呂敷の範囲内であれば、子どもたちが自由に活動していても教師が適切に関わり合い、学びを深められることを前提とします。裏を返すと、その風呂敷の中で子どもがどのような反応を示すかは、教師が想定できている状態だと言えます。ですから、学びの風呂敷が広ければ広いほど、子どもたちの遊び(学び)の自由度は広がっていきます。
ただ、注意したいのは風呂敷の大きさです。子どもたちの自由な活動を尊重するのはすてきで素晴らしいことですが、風呂敷が狭いのに自由を手渡してしまうと、子どもたちは容易に風呂敷(=教師の想定)を飛び出していきます。そして、教師が自ら収束することができず、学びが操縦不能になっていきます。いわゆる這い回ってしまっている状態だと言えます。
そういった状態を恐れ、風呂敷をギュッと狭め、子どもの自由を制限することもできます。そうすると、確かに子どもの反応は教師の想定内に収まるでしょう。しかし、結果として子どもの学びへの熱は失われてしまいます。
だからこそ、考えるべきは学びの風呂敷を思う存分広げることでしょう。そうすることで子どもたちは試行錯誤できたり、失敗できたりする機会が得られます。
そのためには、教科指導に対する深い理解と児童理解の両輪が求められます。教科指導に対する深い理解があってこそ、学習単元や各時間のねらいは何か、そしてそれはどのような具体的な子どもの言動で立ち現れてくるのかを想定することができます。また、見守るべきか、声掛けをするかなど、効果的な指導を行うこともできます。
想定すると言っても当然、学びの道筋は一人一人違います。それは、教師の指導や支援も異なってくることを意味しますし、ここに児童理解の重要性が生まれてきます。だからこそ、これまでのその子の特徴や教材との関わり方などを加味して、その子の学びがどのように立ち現れてくるかを考える必要があるのです。
それらが重なり合うことで、単元や本時での子どもたち一人一人の学びのストーリーが見えてきます。そうすると、自然と教師が行う直接的支援や間接的支援も決まってきます。そのように教師が学びの先を見通し、必要な手だてを想定することで、学びの風呂敷はどんどん広がり、子どもたちの学びの自由度は広がっていきます。遊びは子どもたちの心的態度であるからこそ、教科の専門性と綿密な児童理解がより一層求められるのです。