「主体的・対話的で深い学び」が昨今、中等教育においても求められています。その主体は子どもではありますが、日々子どもと対峙している教師にも、同じ学びが求められていると思っています。教師自身が学ぶ主体でなければ、どうして子どもが学ぼうとするでしょうか。
小手先のテクニックでどうにかなるものではなく、教師が学び続けていかなければ、深い学びは実現できません。その意味で、「主体的・対話的で深い学び」は、教師にとって峻厳な言葉です。ICT環境がいくら整備されていても、子どもの学びが駆動するかどうかは教師次第です。子どもにとって最も影響力のある教育環境は、昔から変わらず教師そのものだと私は考えています。
4技能5領域についてのコミュニケーション能力を向上させることは、英語教育における重要な命題です。一方、劇作家の平田オリザ氏は日本の子どもたちのコミュニケーションに対する意欲の低下を指摘しています。これは能力の低下ではありません。平田氏によれば、「『伝える技術』をどれだけ教え込もうとしたところで、『伝えたい』という気持ちが子どもの側にないのなら、その技術は定着していかない」とのことです。
これは英語における言語活動にも言えることで、伝えるための必然性や動機がないのであれば、言語活動がどんなに精緻に計画されていても、内容は浅薄なものにならざるを得ません。私はその点を克服するためのよすがをディープ・アクティブラーニングに求め、さまざまな言語活動を構想し、実践してきました。生徒のパフォーマンスをさらに高め、英語力だけでなく価値観や世界観の変容を促すような授業を今後も目指していきたいと思います。
また、「コミュニケーションとは、分かり合うためのものではなく、分かり合えなさを互いに受け止め、それでもなお共に在ることを受け容れるための技法である」とは、情報学研究者のドミニク・チェン氏による言葉です。早急に分かり合うことを求めるのではなく、分かり合えなさも包摂する言語活動をさらに具現化していきたいとも考えています。
最後に、次のような言葉を紹介したいと思います。
「本は『驚き』によって世界(存在)を開く、それは環境緊縛性から世界開示性への開かれでもあり、ときにそれが『自由』の体験であり、また『救い』でもある」
これは、昨年(2023年)4月に多くの人に惜しまれながら閉店した定有堂(鳥取市)という本屋の店主・奈良敏行さんの言葉です(定有堂書店は書店員の聖地と呼ばれていました)。教育の本質も、この言葉と何ら変わりません。「本」を「教育」「深い学び」「授業」に換えれば、そのままそれらの定義となります。この定義に少しでも近づけるよう、私も学び続けたいと思います。(おわり)