社会で生きている私たちは、生活の中で「困る」ことと、特に不便を感じない「困らない」ことがあると思います。この「困る」と「困らない」の違いはどこにあるのでしょうか。
それらの違いを社会や社会にあるシステムとの関係から見ていくと「困らない=あるシステムから取りこぼされない」、「困る=あるシステムから取りこぼされてしまう」と言い換えて考えることができます。
例えば、赤ちゃんを連れて外出した際、おむつを替える場所が女性用トイレにしかない場合、女性と一緒に外出した赤ちゃんは困りません。一方、男性と外出した赤ちゃんはおむつを替えてもらうことができず、困ってしまうかもしれません。
これは、「子育てをするのは女性=赤ちゃんと外出するのも女性」という多数派が無自覚に持っている認識に基づいてつくられたシステムに、「子育てをする男性」という少数派が取りこぼされた結果、赤ちゃんが「困る」という状況が生じたわけです。
私たちは、多数派によってつくられたルールや仕組みの中で生活しています。そうして多数派の側にいる中で自分たちの権利が守られていることに気付かず、システムから取りこぼされている人たちの困りをその人固有の問題としてしまいます。(これを個人(医学)モデルと言います)
最初から「性別にかかわらず赤ちゃんは大人と一緒に外出をする」という認識の下でシステムが作られていたら、赤ちゃんは外出時の大人の性別によって困りが左右されることがなくなります。このように、多数派を中心に設計されていることで少数派が困る社会の仕組み自体を、全ての人が使いやすい仕組みに変えていくことで、個人的に見える理由にその原因を帰さない在り方を「社会モデル」と言います。
最近『THE BIG ISSUE JAPAN』(484号、2024年8月1日号)で「人権マイノリティ」という言葉と出合いました。人権マイノリティが生じるのは、日本の若者が学校教育の中で人権が守られている感覚を育まれてこなかった結果であると読み取れる内容でした。学校現場で使用される言葉に「困った子どもは、困っている子ども」というものがあります。この言葉を社会モデルで考えると「(システムに)困らされている子」と捉えることもできます。
学校に今ある仕組みを社会モデルで考えることができたら…困る子どもが減り、そのように育まれた子どもが大人になった時の権利意識に違いが生まれるかもしれません。