今回は、宿題についてです。
第4回で述べたように、学力向上は学校が担うべきことです。しかしながら、家庭学習の習慣付けは、家庭の役割。つまり、全員一律の宿題というのは、基本的には学力保障の責任の押し付けであり、かつ余計なおせっかいです。教育基本法や学習指導要領にも定められておらず、本来は学校教育として要らないものなのです。
しかしながら、一般的にはそう思われていません。家庭教育の方針がしっかりしているご家庭にとっては全く無用の長物なのですが、「ないとどうしていいか分からず困る」というご家庭からの要望もあります。また、それとは逆に家庭学習の習慣付けに対して無関心過ぎるご家庭も存在します。だから学校は、老婆心ながらクラスの子ども全員に対して宿題を出すのです。
宿題を出す際には、「ほぼ全員確実にこなせる課題」あるいは「個別の配慮のある課題」である必要があります。現実的に、限りなく簡単な課題であっても、できない子どもがいるというのが現実です。全員達成が容易に実現するほど簡単な課題は、もはや課題としての価値がありません。結局、個別の配慮が必要になります。宿題というのは、よくよく熟慮して出す必要がある、教師自身にとって高度な課題であるということです。
不親切教師としては、全員一律・一斉の宿題はなるべく出さない方向で考えます。そもそも宿題というのは、社会人からすれば「持ち帰り仕事」あるいは「残業」です。それをしないで済ませる前提で考える方が健全です。つまり、安易に宿題を出すのではなく、学力を授業中に付けることに全力を注ぐのです。新出漢字や計算練習のドリルを宿題として出すのではなく、きちんと授業中に教え、取り組む時間を与えます。
その時間を全員に公平に充てた上で、なお個々に残ったもの、身に付かないことがあります。ここについては、各人の努力や創意工夫で賄うべきでしょう。つまり「残った分は家庭で」という宿題です。結果、授業中に集中して取り組む姿が見られます。放課後は、どの子どもも遊びたい、ゆっくりしたいに決まっているからです。
学校の宿題というのは、極論を言えば「大人の安心感」のために存在しています。残念ながら、子どものためではありません。夏休み明け、読書感想文コンクールや科学工夫作品展、図工作品展などに、一定数の作品を出品せざるを得ない学校の事情を考えれば、容易に納得していただけることかと思います。
「子どもの主体性育成の視点から、宿題の在り方を見直していきましょう」という、不親切教師からの提案です。