以前、私が担当する大学1年生の英語の授業に、アシスタントとして参加してくれた3人の教職課程の学生がいました。3人の学生による見取りは三者三様でした。
一人は「ほとんどの子が単語調べから始まっていた」「紙をあまり使っていなかったから、問題を解きづらそう」と、主に学習者の授業参加の様子を言葉にしました。授業者である私はなかなか全体を満遍なく見るというのは難しく、「全体を見よう」と意識するとぼんやりした印象しか残らないことも多いのですが、この学生が個別の学習者が授業に参加する様子を見てくれるからこそ、授業後に気付けることがたくさんありました。
別の学生は、学習者の授業理解度や理解しようとする態度を意識して授業を見ているようでした。例えば、「グループワークでは比較的意見交換というよりは『うーん』と悩んで考える時間が多いような気がした」「先生の解説にうなずいたり、メモを取ったりと、積極的に聞いている感じだった。次のグループワークで話を振ってもいいかもしれない」といったメモが、それぞれの学習者が授業内容をどの程度理解できているかを探る手がかりになりました。
また、別の学生は学習者の一般的な性格や傾向をつかむことに強い関心を持っていたように思われました。彼はこのアシスタント期間を「学生にとっての学びやすさ」について考える機会になったと振り返りました。この学生は、私から見れば非常に「スマート」で、教室で行われる学習活動に合わせて振る舞い方を器用に変えられる学生でした。だからこそ、いろいろな性格や行動の傾向を持った学習者の存在を意識できたことは、教師を目指す彼にとって貴重だったと思っています。
私の授業は学生による見取りに大いに助けられました。授業者一人では見られないところまで見てくれたおかげで、毎授業後に学生のメモや振り返りを読む時間が大変有意義でした。
研究授業などの大げさなものでなくても、他の先生の授業を見る際には、「指導技術を盗もう!」という意気込みが大切かもしれません。しかし、その先生の授業ではどのような学習者がどのように学んでいるのかを見取り、伝えることも大切な役割だと私は考えます。
3人の学生はそれぞれ目の付けどころが異なりました。同じ授業で同じ学習者を見ていても異なる見方が存在します。そうした中で、自分ならいつ、誰の、何を、どう見取るか。次回は、見取りの「ねらい」を持つことについて考えます。