第5回 「too political,too scientific」な問題

第5回 「too political,too scientific」な問題
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 国際専門誌に自らの手で進めた研究の査読論文が掲載されるという高校生の偉業があぶり出したものは、大人たちの無知でした。

 例えば、今もスクリーンショットを残していますが、ある新聞はこの研究のオンライン記事の見出しで「被曝」と書くべきところを「被爆」と誤記しました。少しでも議論を追っていればすぐに気付くあり得ないミスです。その新聞社は「福島に行ったら鼻血が出た」という言説が流布することを「言論の自由だ」と擁護する論を打ち出したこともあるメディアでした。

 また、この研究が評価されるほどに「子どもを利用している、洗脳している」といった紋切り型の懸念も寄せられました。ただ、当然ですが、そんなことを言う人間よりも生徒たちはよほど専門知を持つ状態に成長していることは明らかで、この話を知った多くの大人は自分たちが偏見・固定観念に支配されていたことを謙虚に反省せざるを得ませんでした。

 私が「主体的・対話的で深い学び」というフレーズを知ったのはもっと後のことですが、この事例を超える探究的な学習プロセスは滅多に見てこなかったように思います。これは私が教育学研究者でも中高教員でもないのに、防災教育と探究学習に深く・継続的に関わるようになった原体験です。

 無論、この事例は特殊事例です。「その時期の福島だからたまたまできたんですよね…」と思われるでしょう。確かにそうです。3.11の経験と伴走する優秀で情熱をもった指導者・支援者たちが集っていたことは否定しません。ただ、ここに真の「主体的・対話的で深い学び」と、形式的に「やった感」を出すだけのそれとを分けるエッセンスが詰まっていると私は考えています。

 どういうことか。この事例の高校生が探究した「3.11」という問題の特殊性の根本にあるものがそのエッセンスです。それは「3.11」が原発・放射線などの問題を包含する「too political,too scientific」な問題であること、つまり「過剰に政治的・科学的でややこしい・面倒くさい」ということです。本連載の3回目で、「平和・人権・貧困、いずれもものすごく大事なことだけれども、どう学校で扱うべきか」が難しいと書きました。これも同様です。ここでは詳細を割愛しますが、どれも政治的にややこしいし、仮に政治的な議論に巻き込まれたときに、しっかりと(社会科学も含めた)科学的論拠を出し、自ら主体的に対話をして耐えるだけの深い知見も必要になります。

 福島の高校生とそれに伴走した大人には、ここをクリアする胆力がありました。そのややこしさ・面倒くささを乗り越えたが故に「成功事例」になったわけです。

 そして、「too political,too scientific」な問題は、そこかしこに転がっているはずです。例えば…(続く)

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