【社会をつくり出す武器としての言語活動(12)】言語活動は言語生活へ―対話的な授業の価値―

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 中動態的な授業は、生徒や教師の関心の文脈を授業化していく。こうした授業を、生徒はどのように捉えているのだろうか。本連載の締めくくりにあたり、生徒に話を聞いてみた。

 まずは、私の授業を受けて3年目になる、2人の高校2年生に聞いた。回答は次のようなものであった。

「国語の授業は、かなり対話色が強い授業だと思うかなと。(略)たぶん授業ごとに、その日のテーマとかはちゃんとあると思うんですけど、僕らが何か質問すると『それいいね』って感じで、どんどんテーマが切り替わっていく。それでも、実は全てがつながっているっていう感じがあって…」

 「国語は、僕らが発言して、それに先生が応答して、そこから話題が発展したり、次からその内容を扱うことになったりして、即効性があるというか。(略)疑問を投げ掛けて、先生が『実はそれはね…』とか『じゃあそれを考えよう』みたいに授業が始まるのはうれしい。やっぱり、自分が気になるからそこで問い掛けるわけで、それに対する応答があると楽しいと思うし、それに巻き込まれる他の人も楽しいですよね」

 「対話」や「応答」という言葉が述べられているように、授業内外における対話を通して、生徒と教師自身の関心の文脈を授業の場に投げ込んでいく。すると、言語生活において、何か分からないことがあるときは、授業の場で周囲に意見を尋ねてみようという発想が定着する。

 生徒からは「自分が気になるから授業で問い掛ける」という言葉も出た。おそらく、本当に分からない切実な問いが出るからこそ、言語活動も活発化するのであろう。

 では、学校を卒業したら、そうした言語活動は消失するのか。否である。私の授業を受けた卒業生に話を聞くと、卒業した現在でさえ、ニュースを見たり、本を読んだりするたびに「これは授業の種になるな」と思うことがあるそうだ。

 そう思う理由を尋ねると、それが自然な営みになっているので「やめられない」のだという。おそらく、空気を吸ったり、歩いたりするように、ごく当たり前になった習慣は、やめようとしてもやめられないのであろう。

 言語に対する関心が教室の場から生活の場へと持ち越され、生活の場において根を張ったとき、言語活動は「言語生活」へと転化する。

 教室における言語活動を豊かにするのは、教室で活動を完結するためではない。教室を出た後も続く言語活動への関心、すなわち、言語生活を豊かにするためにこそ、教室における言語活動を豊かにしたい。

(おわり)

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