【保護者と信頼関係を築く(3)】偏った信頼関係、止まらない要望

【保護者と信頼関係を築く(3)】偏った信頼関係、止まらない要望
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 価値観が多様化している中、保護者が何か学校や教師にしてほしいと思ったとき、それは絶対である。その価値判断以外のものは受け入れられないからである。

 「うちの子は学習内容が定着していないので、中心的に見てください」

 一般的には自分本位な要望のように聞こえるが、その保護者にとっては至極まっとうな要望なのである。何しろ、わが子が分からないのだ。これは何としてでも解決の道筋を探らなければならない。

 「留意はしますが、あくまでも30人の中の一人だということを忘れないでください」

 本来であればそう言いたいところだが、本当にそんなことを言ったら大変である。

 「先生で駄目なら、校長先生にお願いします」

 簡単にそうなってしまう。だから、「分かりました。気を付けて見ていきましょう」と、具体的とも抽象的とも言える言葉を使い、何とかその場をしのぐという対応になる。

 保護者にとっては、自分の要望を聞き入れてくれる教師こそ、「良い先生」ということになる。そこに存在するのは対等な人間関係ではなく、サービスの提供者と享受者という歪な関係である。従って、求めるサービスを教師が提供しそうにない場合、「私としては納得がいきません」となることも多い。

 教員が複数の保護者の要望の板挟みになることも少なくない。例えば、別々の保護者が、「先生、家でもっと勉強するように宿題を増やしてください」「先生、塾の勉強で忙しいので、宿題は極力出さないようにしてください」と、相反するお願いをしてくるような場合である。この場合、折衷案など存在しないから、「もう少し増やしてみましょう」「子どもの負担を考え、精選していきましょう」と、双方に聞こえの良い言葉を投げ掛けることとなる。保護者の怒りの矛先が自分に向かないようにするための処世術と言えよう。こうしたケースは数多くあり、我々教師自身、対応している自分の姿に自己嫌悪を抱くことも多い。

 このようになってきたのは、保護者の要望に応えるのが「良い先生」という固定観念があるためだと考えられる。社会全体の固定観念というだけでなく、そうした意識は教師の中にも往々にしてある。そこに存在するのは双方の信頼ではなく、極端に言うと主従関係にも似たようなものだ。そこから本来の信頼関係を築いていくためには、教師の自立が求められるのだが、そこに踏み出す勇気がないというのが現状である。

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