教師は保護者との人間関係づくりを狙うものであってはならない。そこには、「他の教師はさておき、自分だけはうまくやっていきたい」という気持ちが入ってしまう。迎合や忖度(そんたく)、敵対などに発展するのは、こうした意識の延長線上である。結果として、信頼関係を築けたという姿が理想的なものであろう。
そうは言っても、信頼のかけらも構築できない保護者がいる。
「そもそも、給食費は全て公費で賄うものだと思っています。集金には応じられません」
「先生は早退させたいと言っていますが、保健室で預かるのが筋ではありませんか?」
理不尽な申し出に対し、笑顔で誤魔化すことはできない。毅然とした態度で、「給食費の支払いは保護者の義務です」「保健室では医療行為はできません。すぐに医療機関に連れていくべきです」と伝えるべきである。その結果として、「あの先生。感じが悪い…」となったとしても、それはあくまでも結果である。迎合や忖度をしてでも関係づくりをする必要など毛頭ない。
以前、フランスからの帰国子女を受け持ったことがあった。彼女は、日本の教師のきめ細かさに驚いていた。
「日本の先生は、休み時間に私たちと遊んでくれるし、空いた時間に勉強も教えてくれる。とても親切だと思う」
フランスの教師は、休み時間に質問した彼女に対してこう答えたのだという。
「今は私の休憩時間だからお断りします。授業中にしてください」
だからと言って、教師との信頼関係が築けていないという様子ではなかった。頼まれたら何でも引き受けるのが共生なのではなく、時に要求を拒否することがあっても共生は実現するのだと理解した。最後に彼女が、「日本の先生は大変ですね」と付け加えた言葉が印象的だった。
日本社会では、共生はしばしば全共感の意味として用いられる。共に生きることが、全てにおいてあつれきやすれ違いがないことと曲解されているのだ。同じ方向を向いているはずの家族でさえ、時にいさかいが起こるときもある。共生の過程では自然なことだ。だからこそ、我々教師も、「全てにおいて理解し合っていこう」ではなく、「理解できるところもできないところも含めて、子どものために同じ方向を向いていこう」程度の感覚でよいのではないか。そうした肩の力が抜けた状態でいることこそ、保護者と教師が共生していく道だと考えている。
(おわり)