本連載ではこれまで、チャット相談の仕組みやSOSを出さなくても頼れる人につながる仕組みの重要性などをお伝えしてきた。最後となる今回は、これまでのことを踏まえて、「学校における孤独・孤立」を捉え直すことを提案したい。
学校には明確にスクールカーストが存在する。スクールカーストの上位にいるのは「陽キャ」と呼ばれる人たちで、「隠キャ」と呼ばれる人たちが下位に位置付けられる。スクールカーストや「陽キャ」「隠キャ」という言葉を使うと、「そんな言葉を使うべきではない」と批判されることもあるが、ナンセンスだ。実際に子どもたちが日常的に使い、すでに一つの文化になってしまっている。その現実から目を背けてはならない。
「陽キャ」「隠キャ」に分類される人を大きく分けると、学校で友達がたくさんいて明るい人が「陽キャ」であり、学校ではあまり友達がおらず対面でのコミュニケーションが苦手とされる人が「隠キャ」となる。この考え方、すなわち対面でのコミュニケーションの総量によって学校内での社会的地位が確定してしまう現状を根本から捉え直す必要がある。学校の教職員の中にも、学校内でのコミュニケーション量を目安として、その人のキャラクターを無自覚に捉えている人がいるのではないだろうか。
本連載の第5回で孤独や孤立とは何かを説明した。要約すると、孤独は社会的関係の量と質が不足している状態で生じる。社会的関係とは何も対面に限った話ではない。学校の中でのコミュニケーション量が少なく「隠キャ」とされていても、インターネットやゲーム上に何でも気軽に話せる人がいれば、社会的関係は充足する。一方で、いわゆる「陽キャ」で、周囲から見ると社会的関係が充足していても、質が不足していれば孤独を感じる可能性は十分にある。
SNSが生まれたことにより、現代に生きるわれわれのコミュニケーション量は間違いなく増えている。コミュニケーション量はつながりの代理変数かもしれないが、総量だけが増えても孤独が深刻化している現状を鑑みると、関係性の質にフォーカスを当てる時代が到来していることが分かる。
対面で常に周りに人がいて明るい人が、社会のロールモデルである必要はない。幸せの尺度や孤独の尺度は極めて主観的である。「隠キャ」「陽キャ」を問わず、全ての人が孤独を感じる可能性があるという前提を明確に示す必要がある。学校におけるコミュニケーション量といった一面によって判断するのではなく、子どもをインターネットやゲームも含めた社会全体に生きる一つの個として捉えた上で、全ての人がいざという時に頼れる人にアクセスできる仕組みが整備されること、自らが「頼れる人になる」という選択を取る人が増えることを期待したい。
(おわり)