今回も「生きづらさ」という言葉が何を意味するのか、話を続けます。この曖昧な言葉を使うことで、何が表現されてきたのでしょうか。
生きづらさに触れた最初の論文は、社会福祉学者の加藤博史さんによる1981年の「街で患者として暮らすものの生きづらさ(主体的社会関係形成の障害と抑圧)と、P.S.W.機能」です。精神科に勤務するソーシャルワーカーの立場から、精神障害者の社会復帰支援について論じられています。
加藤さんは、精神障害者を「話し合える能力と、話し合える相手と、話し合える環境を失った人たち」と捉えています。そして、生活基盤の確保だけでなく、「話し込む」ことを通じて「本当の内容をもった『自己決定』」を促す介入が必要だと述べています。その上で、「自己をながめられる自我を確保することで、『自分としてのまとまり』を強化すること」が「本当の治療の内容」だと述べているのです。ここでは、「生きづらさ」には①ある具体的なつらさと、②「自己をながめられる自我」の不在によるつらさの語り得なさが、二重に存在していることが示唆されています。
この二重性は、2000年代以降に増殖していく生きづらさを巡る語りの中でも、断片的に見られます。例えば香山リカさん・上野千鶴子さんらによる書籍『「生きづらさ」の時代』(2010)には、「生きづらさについて考えることほど生きづらいことはない」と語る大学生が登場します。考えるほど自己を対象化して理解する主体の不在が明らかになり、苦悩が増幅するということでしょう。
また、哲学者のひろさちやさんは『生きづらさの正体』(2011)という本の冒頭で、落語の「粗忽長屋(そこつながや)」を紹介しています。行き倒れの死体を「熊五郎だ」と思った八五郎が、奇妙にも死んだ当人に死体を引き取らせようとする内容で、話しているうちに熊五郎本人も自分が死んでいるのか生きているのか分からなくなってしまいます。この主体の二重性に現代人の苦悩を重ね合わせる著者のメッセージは、「生きづらい自分に気付く自分を持つことで、苦悩を緩和せよ」です。
これらの例では、生きづらさは曖昧さと結び付けられており、それを対象化する自己の重要性(裏を返せば、その不在)が強調されています。
生きているのが苦しい。表面的な理由はあるがこのつらさを説明できるものではない。周囲は分かってくれず、自分でもなぜなのか、どうすればよいのか分からない――生きづらさとは、そうした状態を表す主観的な言葉なのです。