学校の中の生きづらさにどう対応すればよいのでしょうか。不登校を例に考えてみます。
不登校研究者を名乗る私は、教員の方々の研修会などで話す機会があります。内容は主に社会の不登校理解の歴史や現状についてです。その一方、聴衆のニーズは「どういう事例にどう対応すればいいのか」という実践的なハウツーです。「わざわざ時間を割くのだから役立つ学びを」という思いはよく分かります。しかし、私には「どうすればよいか」は語れません。力量不足もありますが、おおよそ専門家は「明らかに間違い」ということは分かっていても、何が正解かは分からないものです。
そうした中で意識しているのは、「分からない中にとどまる」ことの大切さです。教育問題とされるものには、人生の問いがあふれています。規則とは何か、自由とは何か、何のために学ぶのか、他者と関わるとはどういうことか…。いずれも正解はありません。だからこそ子どもの問いを共有し、共に考え、分からないことを認め、かつ切り捨てない態度が大事になると思っています。
研修会の最後に、私は次のように言うことがあります。「不登校への『良い対応』の一つは、『今不登校に対応している私とは何か』を問うことだ」と。
子どもが学校に行かなくなると、親や教師はあたふたし、「不登校を何とかしたい」と考えます。背景には「不登校は親としての子育ての失敗だ」とか「不登校を改善して教師としての力量を示したい」という思いがあるように見えます。そこには「自分の問題」と「子どもの問題」を混同させてしまう危うさがあります。
不登校が大人に突き付けるのは、「いかに再登校させるか」ということを超えた「個人が集団の中で生きるとは何か」という深遠な問いです。子どもが不登校だと「私」は何が困るのでしょうか。そもそも「私」はなぜ学校に行ったのでしょうか。今、教師・親として学校をどう思っているのでしょうか。
そのように足元を問い直し、試行錯誤する姿を見てもらうことが、一つの「良い対応」になり得ると思います。子どもより少し先に歩み始めた、生きづらさを持つ一人として、やはり生きづらさを抱える子どもの前に立つこと。それは「不登校を何とかするのは子ども本人だ」という周囲の側のわきまえでもあります。
大人が自分の問いに取り組むことで問題を子どもに返し、「あなたにはそれに取り組む力がある」と伝えていくのです。