【平和教育はどうあるべきか (10)】『いわたくんちのおばあちゃん』と『おこりじぞう』-価値と平和-

【平和教育はどうあるべきか (10)】『いわたくんちのおばあちゃん』と『おこりじぞう』-価値と平和-
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 最終回で取り上げる絵本が、『いわたくんちのおばあちゃん』と『おこりじぞう』である。

 『いわたくんちのおばあちゃん』に登場するおばあちゃんは、写真が嫌いである。なぜかと思った「ぼく」に、お母さんが「ちづ子おばあちゃん」が受けた被爆の体験を話してくれた。

 おばあちゃんは広島で両親と4姉妹と共に暮らしていた。8月初め、家族で記念写真を撮る。原爆が投下された8月6日、学徒動員でちづ子おばあちゃんは缶詰工場に、次女のかよちゃんは別の作業場に動員されていた。原爆で焼けたお家を掘り起こすと、お父さん、三女のひろちゃん、末っ子のきみちゃん、それをかばっていたお母さんの遺体が見つかる。これに加えてかよちゃんも見つからず、この日を境にちづ子おばあちゃんはひとりぼっちになる。しばらくして写真館のおじさんが家族写真を持って来てくれたが、家族でそれを見ることができたのはちづ子おばあちゃんだけ。そのために、おばあちゃんは写真を撮るのも撮られるのも嫌いになった。この話を聞いて、「ぼく」は最後に「ぼく、おとなになっても、戦争せんよ。ほんとよ」と言う。

 この「ぼく」の言葉は、子どもの素直な気持ちであろう。誰もが戦争をしたくない、でもせざるを得ない状況に追い込まれてしまう。決して追い込まれないよう、「ぼく」は自ら決意を表し、自戒している。

 『おこりじぞう』も広島の話である。ある横丁に小さな石でできたおじぞうさんがあった。丸い顔でいつも笑っているように見える。近くの人々は「わらいじぞう」と呼んでいた。しかし、8月6日に原爆が落ち、広島の街はすっかり変わってしまった。何もかもが吹き飛ばされ、おじぞうさんの体も砂の中に埋まり、顔だけをのぞかせていた。次の日、このおじぞうさんの近くを女の子がはだしで歩いてきた。その子がおじぞうさんの前で倒れ、おじぞうさんに「かあちゃん、みず」と言うとおじぞうさんは怖い顔になり、涙を流した。その涙が女の子の口に入ると、その子は「かあちゃん」と言い、少し笑って動かなくなった。その途端、おじぞうさんの顔が崩れ落ち、体だけになってしまう。その後、広島の街に人々が戻って来て、体だけだったおじぞうさんに頭を付けてくれた。おじぞうさんは目を開き、仁王さんのような顔になり、「おこりじぞう」と呼ばれようになる。

 本連載の最終回では、原爆を体験したおばあちゃんとじぞうの姿を紹介し、それらが持つ価値について考えた。原爆を境に広島の人々が戦争を拒み、平和を望むようになったことをおばあちゃんとじぞうを通して描いている。

 本連載を通して、平和にはいろいろな形があり、人々がそれをさまざまな絵本や物語を通じて表していることを紹介した。こうした教材を通じ、多くの人々が平和について深く考えることを期待したい。

 (おわり)

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