生徒の要望を受けて急遽行うことになった「コロナを通して社会を診る」と題した単元では、最初に全国で問題となり始めていた「コロナ差別」についての検討を行った。病院からの乗客に対するタクシーの乗車拒否、感染者の家を狙った投石や落書き、長距離トラック運転手の子供が登校を拒否された問題など、各地で相次いだ差別の事例を調べながら「日本はもうダメかもしれない」とつづる生徒もいた。そこで私は「日本はコロナでダメになったのか、もともとダメだったのか」と問い返し、過去に日本で行われた意識調査を紹介した。
社会調査を踏まえると、コロナに関連する差別は、日本の社会意識が危機的状況において顕在化した事象であり、歴史の変化としては「驚く必要のないこと」だと分かる。その後は、差別の解消に向け、言葉の「文脈」という視点にフォーカスしていくことにした。
最初に取り上げたのは、「文脈が過剰に付加された言葉」である。例えば「コロナによる汚染」や「コロナ感染が発覚」という言葉だ。「発覚」という言葉は「隠していたものが明るみに出る」といった意味である。「コロナが発覚」という表現は「コロナは隠されるべきもの」という不要な文脈を内包している。
続いて取り上げたのは、「文脈が語り落とされた言葉」である。例えば「〇人が感染・死亡」という見出しの表現だ。この言葉は、感染した本人の苦しみや遺族の悲しみという文脈を語り落としてしまう。
この点を深めるために、川崎洋の「存在」という詩を紹介した。そこには「『二人死亡』と言うな/太郎と花子が死んだ と言え」とある。言葉は「概念」であるため、語り落としは避けられない。しかし、語り落とされたものへの敏感さが、言葉の感覚、ひいては、人権の感覚を耕すのである。
米国の人種差別事件と時期が重なったため、「人権」という言葉が語り落としたものは何かと生徒から質問を受けた。Human Rightsという言葉がまず語り落としたのはwomanである。加えて、仮にmanであっても、有色人種や障害のある人々は語り落とされた。
こうした議論と前後して、コロナ感染によって亡くなった人の氏名を3ページにわたって掲載した8月24日付のニューヨーク・タイムズ紙を紹介した。リード文には「ここに掲載した1000人は死者数全体から見れば1%にすぎないが、単なる数字として扱われる人は誰一人として存在しない」とある。報道によれば、同紙の編集部は、死者の氏名を記すことによって「失われた個々の人生を描写する」ことを目指したということである。