教師に対する理不尽な要求や要望、クレームが以前に比べて増加した要因として、保護者の高学歴化、孤立化、社会全体の過剰なサービス化などが挙げられているが、現場にいる者としてどうもしっくりこない感じがしていた。本当に高学歴であれば、「先生も何かと大変ですね」と相手の立場や心情を察する力が身に付いているはずである。孤立化した人間が攻撃に転じるという話も耳にはするが、子どもを育てている保護者の多くが孤立しているわけでもない。社会全体の過度なサービス化により、「もはや子どもではなく、お子様だ。そのお子様を育てているんだから、保護者様だ」と自嘲気味に言っている同僚もいたが、多方面でサービスという優遇を受けた結果として、それを学校に求めるという話もどこかしっくりとはこない。学校はサービス機関ではなく、この国の未来を担う子どもを育てる教育機関だからである。
教育哲学者の和田修二先生が、「価値観の多様化がエゴイズムやニヒリズムを生む」と私に話してくれたことがあった。例えば、保護者面談で、「お子さんの授業態度が気になります」と言葉を選びながら、何とかそう伝えたとしても、「それは先生の感覚ですよ」となってしまうことがある。担任教師がそう思ったとしても、「私はそう感じていないのだから聞き入れられない」といったスタンスである。価値観が多様化し、言い方は悪いが、「何でもあり」になってしまうと、もはや当事者が正解だと思ったことが正解になってしまうのである。私(個人)が最終的な善しあしを判断するという考え方である。
確かに、教師は絶対的な評価者とは言えまい。それでも、「落ち着かない様子が見られます」と言えば、「学校ではそうなんですね。家でも注意しておきます」となるのが通常のコミュニケーションである。それが受け入れられないとなれば、平行線をたどるしかない。あえてそれ以上食い込めば、「先生は、うちの子の良いところなんて、全然見てくれていませんね」と物別れになること必至である。ごく一部ではあるが、保護者が自分の主張を絶対だと思ってしまったときは、そこから先は手出しすべき領域ではない。
価値観の多様化を否定するつもりはない。ただ、多様化が「何でもあり」の感覚を助長するとなれば、都合の悪いことは話し合いの議題にはならず、結局は教師が主張を断念するといった悪循環に陥ってしまうのである。